Babauoù in Private Notes

アマチュア音楽ユニット、Babauoùに所属するKunio (Josh) Yoshikawaの雑記帳です。 我々のFacebook "Babauoù Book”にもどうぞお越しください。

「Living in the Material World」〜ジョージのスピリチュアリティ


ジョージのドキュメンタリー映画リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を日付命日(11/29)に観てきました。
日本で私が記憶するジョージが逝った日は今日(11/30)です。私はジョージ逝去の速報を産院で知りました。次女の誕生の瞬間とほぼ同時でした。その次女は本日10歳になりました。


さて、友人のジョージファンの間では、ジョージの後半生の歴史がかなり端折られているという感想が多く出ていました。上映時間が3時間以上もあるのに、どうして入れられなかったのだろう、と個人的にも不思議に思いながら鑑賞しました。


見終えて思ったのは、これはどうやらそもそもクロニクルを作ろうとしたのではなく、ジョージ・ハリスンという人物を描く「映画」を作ろうとしたのではないか、ということです。だからこそマーティン・スコセッシ監督に依頼したということなのかもしれません。


スコセッシは年表を作るのではなく、ジョージという人物が心を大きく動かされた出来事と、ジョージがまわりの人の心を大きく動かした出来事を慎重に取捨選択し、ジョージ・ハリスンの心の旅の物語を構成していたと思います。休憩つき3時間以上の上映時間が全く長く感じなかったので、それは成功していたのではないでしょうか。


音楽ものでなくても映画を音楽的に仕上げていくのは、マーティン・スコセッシの得意技のひとつと常々感じますが、今回も編集のリズムや、音のメリハリの付け方が素晴らしく、全体がとても「音楽的」に構成・演出・編集されていたように思いました。言葉や映像をこれでもかと畳み掛けたかと思うと、ふとジョージの表情を無音で見る思索的な長い間が用意されていたり…。音楽そのものについても、サウンドの丁寧な磨きあげぶりも嬉しいポイントでしたが、ジョージの言葉、特に「歌詞」について非常によく吟味して選曲し、使い所を決めていたと思います。
エンドクレジットの「Long Long Long」がホワイト・アルバムで聴く印象とは180度異なり、まるで鏡のように、この映画を観た人・この映画に関わった人の全てからジョージへのメッセージになっているのには感心してしまいました。
リンゴが最後に見せる心の揺れとオリビアの締めの言葉へのシンパシーが確実にその方向へ観衆を導きます。


前半のジョンのキリスト発言論争の時に、ミック・ジャガーの絵を上手く使って、ビートルズを表面的に宗教扱いした人々への痛烈な批判をコメント抜きで成し遂げていたのがさすがだと思いました。ミックの表情を絶妙のタイミングでインサートしたり、オンで聞こえていたはずのないミックのライターの音をわざわざ強調したり、現実に撮れていたフッテージをそのまま使うのではなく、映画に必要なエレメントを意志を持って引き出すことに労を惜しんでいないのがスコセッシならではという気がします。そして、ジョージが巻き起こしたわけではない「ビートルズvsキリスト問題」をそこまで意識的に取り上げたことは、後半でジョージのスピリチュアリティに迫って行く構成の見事な伏線になっていました。


後半では、ジョージがLSDから抜け出して宗教的な考え方にどんどん踏み込んでいく様を描写していくのですが、ジョージの思索の深さを描きだす一方で、ジョージの「俗」の部分を間で描いていくことを忘れず、ジョージが「聖人」になってしまわないように気を配りながら、「マテリアル・ワールド」に生きるジョージの「スピリチュアル」な魅力を讃えようと細心の注意を払って組み立てていったスコセッシの姿勢を感じました。3時間を越える長さは、それを実現するために必要な尺だったのではないでしょうか。


そんな描かれ方をしている「ジョージ・ハリスン物語」なので、これはもしかしたらジョージをほとんど知らない人にも同じ感動を体験してもらえるのではないかという気がします。
ジョージに興味はあるけれどよく知らないという方にもぜひ見てもらって、感想を聞いてみたい作品でした。