Babauoù in Private Notes

アマチュア音楽ユニット、Babauoùに所属するKunio (Josh) Yoshikawaの雑記帳です。 我々のFacebook "Babauoù Book”にもどうぞお越しください。

どろろ

josh9092007-03-02



以前に「キャシャーン」を観た時と似た印象を持ちました。


志は買い。
作り手が面白いものを作りたいと込めた熱意は伝わってきました。
手塚治虫に対するリスペクトも高かったと思います。


映画のジャンルとしては、ワイヤー・アクション満載の怪獣映画、というノリでした。
それももちろんアリなので、トータルでは楽しめました。
合成があちこち甘いのも、「怪獣映画」というくくりでなら許せてしまうように思いました。
でも、アメリカ映画と比べられたらまだまだちょっとキツイかも。


問題はそれ以外の所にありました。
妻夫木、柴咲のコンビはとても芝居を真剣にやろうとしていました。
親に裏切られた子の哀しみ、親を失った子の哀しみを誠実に表現しようと試みていました。
脇を固める役者も、中井貴一、原田三枝子、原田芳雄、中村嘉津雄と盤石。
なのに、残念ながら監督はお芝居の起伏を焼き付けることに成功していません。


ニュージーランドロケの雄大な風景はとても美しかったけれど、
それだけでは物語は魅力的にはなりません。
今演じられているお芝居を撮るのに適切な背景は何なのか、もう少し考えていたら、
それぞれのシーンのセットの建て方も、選ばれる背景も違っていたと思います。
そのあたりに関心が薄いのとシンクロするように、
お芝居のピークと思われるところがグッとくるように撮れていませんでした。
セリフとして口で言ってしまう前のこみあげてくる感情。
何も言わない時の行間の間合い。もっと描けたように思います。
妻夫木くんも柴咲さんも本当に心を込めてそれぞれの思いを出そうとしていただけに、
惜しい、という感じです。


誰も幸せになれず、哀しみに満ちた運命を背負うのに、
百鬼丸どろろは最後には明るく歩いて行ける。
その明るさに織り込まれた心のひだを描ききれていたら、
本当の意味で手塚作品のリスペクトになったような気がします。
いいところもいっぱいあったので、ちょっと残念。


あと、ささいな事ですが、どろろが始めから女の子に見えるので、
それを隠して男のフリをしている、という設定が伝わりにくいと思いました。
でも、どうすればよかったのかなあ。
男であることを主張するシークエンスを頭に入れても、面白くはならないかもしれませんね。
百鬼丸との会話で、もう少し「男だ」という突っ張りを強調することはできたかも。
ああ、でも、そういう風に撮ったけど、面白くならなくてカットした、という可能性もありますね。
そう考えるとこのままでいいのかもしれません。


あと、もうひとつ残念だったのは、
仇の居城の遠景が「ハウルの動く城」に似た感じに見えたり、
妖怪の卵の集まりが「エイリアン2」そのものだったりしたこと。
それ風にしようとしたのではなかったとしても、
そう見られたらイヤだな、と思ってほしかった気がします。
何とかそうでないものを生みだそうとして苦しんだ時、
新たなオリジナリティに到達できる、というのはよくあることですから。